この歳になると…


ホントに、嬉しい事って、

ほとんど起きませんね〜


もちろん、
担当してる選手が結果を出せた、とかはありますが、


日常での事です。



あるとしたら…


注文したハイボールにレモンスライスが二枚入ってた、とか…


電車で座った隣りがチョー美人だった、とか…


可愛いな〜と思ってる娘にさりげなくボディタッチに成功した、とか…


スーパーの半額シール品が、大量にゲット出来た、とか…




…そんなもんっすよ。ほんと。



そんな日々の中…


ほんのちょいと、
嬉しいことが有りました。



前置きが長いです。(笑)






指導者にとって、何が最も必要か…と云うと、



もちろん、数限りなく有るのですが、


一つ、云えるのは

「我慢」

でしょうね。



その我慢も、

色々あります。


ここでテーマにしたいのは、

「告げたいコトを敢えて云わない」

我慢です。



人に何か云いたい!って時は、


それによって最終的に、何を願うのか?

ってことがあります。



当然、


自分の伝えたい意図が正しく伝わって、

それによって変わってくれること…

ですね。



問題は、

その「変わってくれる為に、どうするのが最も効果的か?」

が、思案するところなんですね〜



直接的に、言ってしまう事も良いのですが、


自分の中で考え、挫折し、
また考え、試行錯誤して、

また挫折し…


その結果として、
「やはりこうすべきだ!」


という、当初

こちらが意図する結論に、自ら到達すること…の方が、


実際、違うんですね。
その後の取り組みが。


人に云われたことは、
所詮は他人の意見。

どれだけ信頼する指導者、コーチだろうが、

どこかで「押し付けられた感」があるので、


本当の意味で「分かっていない」。


だから、本人が自ら、
痛い目に合うのを待ち、
云いたいのを「我慢」する。




でも、これって、

一か八かでもあるんです。


永遠に本人が分からなかったら、
本人のキャリア、それで終わる可能性もありますからね。


だから、その選手の気質にも依りますね。


そこも含め、
指導者側の「眼力」ですかね。


私が眼力が有るか無いかは別にして、



さて、やっと本題。



要は、そこの部分で、
私が「我慢」して、


「おめぇ〜。ここは◯◯◯して、◯◯しなきゃダメだろーよ〜」

という事を、
一年近く、云わずに封印してました。


ま、案の定(もちろん、これを願ったワケではありませんが…)
結果が出ない日々が続きました。


私は、当然の結果として分かってましたが、

いま取り組んでいる事も無意味では無いので、


そこを我慢し、静観したワケです。


自ら、気付くのを待ち…




で、今日、


私の想定通り、

こうしたい、という申し出がありました。




勘違いしないでいただきたいのは、


「ほら、俺の思った通りだろ!言わんこっちゃない」

という意味ではありません。


良かった、というのは、

自ら分かった事が、本当に良かった、と。



私が一切、口を開かず、

本人が現役引退を余儀無くされても、

私が責められることは無いでしょう。ほぼ100%。


誰も分からないワケですからね。(笑)




だから、この嬉しさ、喜びは誰にも分からないと思います。


それ良いんです。


ですが、残酷なのは、


それに気付いたからといって、必ずしも結果に結びつくか否かは…



別問題、って事です。



そう言えば、


表題にもなっている

「啐啄の機」

ご存知ですね?


「啐啄同期」とか「啐啄同時」などと、
同意語で。


啐…親鳥が外側から殻を突く音

啄…雛鳥が内側から殻を突く音


を表すそうで。


要は、双方のタイミングが合わないと産まれない、という意味で、


教育も、与える側と受け入れる側の意思が合うことが大切…



と、教育の標語的に使われてます。


思想は賛同しますが、


猫も杓子も、賛同するのは気持ち悪いです。(笑)


でも、理念は、
こういうことだと思います。