先日、久しぶり昼間に時間が空いてしまい、
最近遠ざかっていた映画を観ようと思い立った。
実は少し前に新聞で見た映画紹介が気になって、
機会があったら観たいと考えていた作品があった。
「いのちの食べ方」というドイツの作品である。
渋谷にあるミニシアターで上映されており、
東京ではこの一カ所だけである。
ドキュメンタリー映画で、セリフは一切なく、音楽さえない。
ただひたすら、
「各種食品の製造・加工現場」を淡々と流しているだけである。
野菜の植え付けから農薬散布、収穫、
牛・豚・鶏の飼育から、と殺〜加工などを、ひたすらに粛々と。
食品の賞味期限偽造など食に対する信用が薄れてきている昨今、
実際の製造現場を見ると、色々考えさせられることが多い。
そう、まさに食品は「製造」。
加工食品ならそれも理解出来るが、
生鮮食品も実際は工業製品であることが思い知らされる。
この作品を観て感じることは人それぞれだろうが、
まさに我々は「工業製品」を食べている、ということである。
牛や豚も、交尾までが完全にコントロールされ、
せまいところに押し込められ、餌やりまで完全自動化。
成体に育てば流れ作業のように殺され、
オートメーションで腹を切り、血を抜き、手足を落とし皮を剥ぎ、内臓を分ける。
ベルトコンベアで流されながら、缶詰や電化製品でも造るように。
当たり前のことだが、作業する人たちは淡々。
仕事だから感情移入しないのは無論、
生き物というより、「素材」としてそれに向かう。
野菜とて、もちろん畑で栽培するのだが、
その実態は「土の上の工場」。
種撒きから農薬散布、収穫まで、
人の手は介するものの、基本的には工場の流れ作業。
つまり、工場で「いのち」を創り、育み、
その「いのち」を殺傷し、それを食品としていただき、生命を維持している。
いまさらながら、
私たち人間は、他の生物を食して生きている。
つまり、「いのちをいただいて」存在し得ている。
食肉を食べている以上、
日頃は漠然と
「多分工場で殺されて、切り刻まれたものを我々、食ってるんだろうな…」
ぐらいの認識だが、現場をリアルに突き付けられると、やはりショッキングである。
では、だからと言って、
あまりに残酷だし、動物が可哀相だから食べるのを止める、
というわけにはいかない。
他の生物を食料としているのは人間に限らず、
生命とは他のいのちをいただき存続するものだからである。
動物愛護、などとキレイ事では自分のいのちが守れない。
つまり「いのちを“いただきます”」
という認識を持ち、
むしろ残さず、完璧に「食べてあげる」ことがいのちをいただいたことに対する「礼儀」なのかも知れない。
それに加えて
「必要な分以上に殺さない」
「太るほど食わない」
が最低限の感謝を表すことなのかも知れない。
そして食べる時は、手を合わせて、
「(いのちを)有り難くいただきます」。
最近遠ざかっていた映画を観ようと思い立った。
実は少し前に新聞で見た映画紹介が気になって、
機会があったら観たいと考えていた作品があった。
「いのちの食べ方」というドイツの作品である。
渋谷にあるミニシアターで上映されており、
東京ではこの一カ所だけである。
ドキュメンタリー映画で、セリフは一切なく、音楽さえない。
ただひたすら、
「各種食品の製造・加工現場」を淡々と流しているだけである。
野菜の植え付けから農薬散布、収穫、
牛・豚・鶏の飼育から、と殺〜加工などを、ひたすらに粛々と。
食品の賞味期限偽造など食に対する信用が薄れてきている昨今、
実際の製造現場を見ると、色々考えさせられることが多い。
そう、まさに食品は「製造」。
加工食品ならそれも理解出来るが、
生鮮食品も実際は工業製品であることが思い知らされる。
この作品を観て感じることは人それぞれだろうが、
まさに我々は「工業製品」を食べている、ということである。
牛や豚も、交尾までが完全にコントロールされ、
せまいところに押し込められ、餌やりまで完全自動化。
成体に育てば流れ作業のように殺され、
オートメーションで腹を切り、血を抜き、手足を落とし皮を剥ぎ、内臓を分ける。
ベルトコンベアで流されながら、缶詰や電化製品でも造るように。
当たり前のことだが、作業する人たちは淡々。
仕事だから感情移入しないのは無論、
生き物というより、「素材」としてそれに向かう。
野菜とて、もちろん畑で栽培するのだが、
その実態は「土の上の工場」。
種撒きから農薬散布、収穫まで、
人の手は介するものの、基本的には工場の流れ作業。
つまり、工場で「いのち」を創り、育み、
その「いのち」を殺傷し、それを食品としていただき、生命を維持している。
いまさらながら、
私たち人間は、他の生物を食して生きている。
つまり、「いのちをいただいて」存在し得ている。
食肉を食べている以上、
日頃は漠然と
「多分工場で殺されて、切り刻まれたものを我々、食ってるんだろうな…」
ぐらいの認識だが、現場をリアルに突き付けられると、やはりショッキングである。
では、だからと言って、
あまりに残酷だし、動物が可哀相だから食べるのを止める、
というわけにはいかない。
他の生物を食料としているのは人間に限らず、
生命とは他のいのちをいただき存続するものだからである。
動物愛護、などとキレイ事では自分のいのちが守れない。
つまり「いのちを“いただきます”」
という認識を持ち、
むしろ残さず、完璧に「食べてあげる」ことがいのちをいただいたことに対する「礼儀」なのかも知れない。
それに加えて
「必要な分以上に殺さない」
「太るほど食わない」
が最低限の感謝を表すことなのかも知れない。
そして食べる時は、手を合わせて、
「(いのちを)有り難くいただきます」。
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