今日は午前中に施術の診療をして、
午後はスポーツ専門学校の講義へ。
もうすぐ後期の授業も終わり、学生は卒業へと向う。
今日は最終の試験である。
さて、以前のエントリーで紹介した書籍、
カリスマ体育教師の常勝教育という本の中で、
最も共感した部分の一つに「態度教育」という概念があった。
まさしく今日、この事を改めて痛感させられる事があった。
既に始業のベルも鳴り、講義が始まる時、
一人遅れて入ってきた女子学生がいた。
私の講義は実技も含むので、当然着替えていなければならない。
しかしその学生は着替えも済ませておらず、
入室して来ても、友人と話している始末。
その学生に「君、着替えは?」
すると、「あ〜、後で着替えます」と答えた。
既にこの時点で、「こんのやろぉ〜」なのだが、
その気持ちをグッとこらえて、型通りに出席を取り、
各自がウォーミングアップやストレッチに入ろうとした時、
その学生が着替えに行こうとしたので、
「ちょっと君、何故遅れて来たの?
他の人も遅れて来ているのなら、前の授業が遅れたとかは有り得るけど、
遅れて来たのは君だけだ。
理由は?」
と聞いた。
すると、
「別に。普通に遅れただけです。」
…何んに〜っ!貴ぃっ様ぁ〜!!(と、心の中で)
そして、着替えに部屋を出て行く時に、
私に聞こえないように独り言風に、
「何〜もう。意味分かんないし〜」とほざいた。
切れ掛かったが努めて冷静に、当然、厳しく説教をかましておきました。
柔らかい口調で、しかし軽く脅しを掛けるように、やや太い声で。
…でも…。全く分かっていないようで。
自分の行動の、“何”が悪いのかが。
(ちなみにこの学生、講義も聞いてないし、成績もしこたま悪い。
講義進行の邪魔をする訳では無いが、どうにも掴み所のない生徒。)
原田氏の唱える「態度教育」を改めて思い出した。
カリスマ体育教師の常勝教育から一説を引用すると、
子供の頃に、教師からこのような事はうるさく言われて来た記憶があるが、
まさにこの重要性を、逆の立場でヒシヒシと感じさせられる。
逆に言えば、「態度」が出来ていない者に幾らモノを教えても、
伏せてあるコップに水を注ぐようなものなのだ。
まさに、こういう事。
専門学校に比べたら、今の小学校、中学校の先生方の大変さは想像を絶するだろう。
何せ、
“白い物体”を、「これは“白”である。何故かと言うと…」と、
ここから始めなければならないようなものだ。
それがまさしく、「態度教育」ということなのだろう。
それにしても、前述の女子学生。
これで社会に出て、大丈夫なんだろうか。
苦労するのは、目に見えているのだが…。
今後の雇い主さま。
力及ばず、すいません。
午後はスポーツ専門学校の講義へ。
もうすぐ後期の授業も終わり、学生は卒業へと向う。
今日は最終の試験である。
さて、以前のエントリーで紹介した書籍、
カリスマ体育教師の常勝教育という本の中で、
最も共感した部分の一つに「態度教育」という概念があった。
まさしく今日、この事を改めて痛感させられる事があった。
既に始業のベルも鳴り、講義が始まる時、
一人遅れて入ってきた女子学生がいた。
私の講義は実技も含むので、当然着替えていなければならない。
しかしその学生は着替えも済ませておらず、
入室して来ても、友人と話している始末。
その学生に「君、着替えは?」
すると、「あ〜、後で着替えます」と答えた。
既にこの時点で、「こんのやろぉ〜」なのだが、
その気持ちをグッとこらえて、型通りに出席を取り、
各自がウォーミングアップやストレッチに入ろうとした時、
その学生が着替えに行こうとしたので、
「ちょっと君、何故遅れて来たの?
他の人も遅れて来ているのなら、前の授業が遅れたとかは有り得るけど、
遅れて来たのは君だけだ。
理由は?」
と聞いた。
すると、
「別に。普通に遅れただけです。」
…何んに〜っ!貴ぃっ様ぁ〜!!(と、心の中で)
そして、着替えに部屋を出て行く時に、
私に聞こえないように独り言風に、
「何〜もう。意味分かんないし〜」とほざいた。
切れ掛かったが努めて冷静に、当然、厳しく説教をかましておきました。
柔らかい口調で、しかし軽く脅しを掛けるように、やや太い声で。
…でも…。全く分かっていないようで。
自分の行動の、“何”が悪いのかが。
(ちなみにこの学生、講義も聞いてないし、成績もしこたま悪い。
講義進行の邪魔をする訳では無いが、どうにも掴み所のない生徒。)
原田氏の唱える「態度教育」を改めて思い出した。
カリスマ体育教師の常勝教育から一説を引用すると、
汚れた部屋や荒れた街にいると、人間の心はどうしても荒んで行きますが、逆にきれいに清掃してある場所にいると心が晴れやかになる。実に単純な事ですが、身だしなみ、整理整頓といったことは、心の動きに大きく影響するのです。
靴を揃える、椅子を入れる、「はい」という返事、清潔な身だしなみ、きちっとした姿勢…
人間はこうした基本的な態度が身に付けば、きびきびと行動出来る様になります。
〜中略〜
生徒は、心がきれいになるほど、素直に教えを聞き入れて真剣にやろうという気持ちになります。すると“心のコップ”が上を向き、人間の器も次第に大きくなり物事を受け入れるようになり、様々な能力、パフォーマンスも高まります。
子供の頃に、教師からこのような事はうるさく言われて来た記憶があるが、
まさにこの重要性を、逆の立場でヒシヒシと感じさせられる。
逆に言えば、「態度」が出来ていない者に幾らモノを教えても、
伏せてあるコップに水を注ぐようなものなのだ。
最近では、親や地域社会が子供をしつける力が急速に弱まっています。そのため、態度教育を徹底することは容易ではありません。厳しい指導は“強制”ととられるために、指導者はどうしても態度教育におよび腰になっています。
しかし、現実には態度教育で子供の“心のコップ”をまず上に向けさせなくては、どんな指導も子供の心に入っていきません。しかもこれは小学生や中学生といった子供だけに限らず、大人である20歳を過ぎた若い会社員さえ同じ状況だと聞きます。
〜中略〜
子供達に「おい、まじめにしろよ」というと、「え〜っ?まじめって何?」と言います。挙句には「掃除するぞ」と言っても、「先生、出来たら何かおごって」。
多くの子がこんな事を平気で言います。
すなわち、「まじめ」という言葉が通用しないのです。
〜中略〜
「まじめにしろ」と言われて、背筋が伸びたのは昔の話。
今の子供達に「まじめにせよ」と諭しても通じない。「まじめに掃除しろ」と言っても、嫌がってやりません。
そのような土台の出来ていない子供に、「まじめ」を教えるのは並大抵のことではありません―。
まさに、こういう事。
専門学校に比べたら、今の小学校、中学校の先生方の大変さは想像を絶するだろう。
何せ、
“白い物体”を、「これは“白”である。何故かと言うと…」と、
ここから始めなければならないようなものだ。
それがまさしく、「態度教育」ということなのだろう。
それにしても、前述の女子学生。
これで社会に出て、大丈夫なんだろうか。
苦労するのは、目に見えているのだが…。
今後の雇い主さま。
力及ばず、すいません。
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